大垣市の中心に鎮座する大垣八幡神社
個人的に、ほぼ毎年初詣に行く神社です。いつでも行けるということで今まで御朱印もいただいてませんでしたが、きれいな青空できれいな写真が撮れそうだったので行ってみました。
大垣八幡神社・ご由緒
天平勝宝元年(749年)より、大井荘(現 大垣市)は奈良県は東大寺の荘園であった。
これにより、後醍醐天皇の御世、建武元年(1334年)南都梨原宮(東大寺鎮守の八幡宮也)を手向山八幡宮より当国安八郡大井荘藤江村に勧誘した(現 大垣市藤江町)。
その後、宝徳3年6月(1451年)遮那院条済が現在の大垣市外側町の地に遷座し、遮那院代々別当職となり大垣町及び近傍十八郷(大井荘十八郷)の総社と称した(この大井荘十八郷は往古南都東大寺の寺領となりし縁故 によるものである)。天文15年(1546年)には、斉藤道三の兵火により全焼するも、慶長5年(1600年)に関が原の戦いにおいて、神宝伝々の記述が見られる事から、程無く再建されたのであろう。
その後、慶長11年(1606年)大垣城主 石川康道政俊の刀奉納、同13年(1608年)幣殿、拝殿、舞殿が建てられる。
慶安元年(1648年)大垣藩初代藩主 戸田氏鉄により再建整備が行われるなど、江戸時代徳川幕府も往古の神威社格を崇め、朱印をもって社領を附し、大垣城主も代々深く崇敬して社殿の営繕をはじめ寄進献納などの敬事数多 を数え、江戸時代を通じて厚く信仰されてきた(その神徳を証する、後陽成天皇の神号軸、藤原行成筆の神号額、大垣城主奉納の神鏡、梶川英盛が寛文年間に記せる八幡神社縁起、その他古文書及び刀剣数口の神宝を所蔵していたが、 昭和20年7月大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により焼失)。明治に入ると、明治新政府より神仏分離令が出され、慶応4年4月から明治元年12月(共に1868年)にかけて全国で分離が行われる(当八幡神社も遮那院を分離)。 その後も、広く大垣市民の崇敬を集めるも、昭和20年7月(1945年)に、大東亜戦争(太平洋戦争)による米軍の空襲により、社殿が焼失した。 消失した社殿等は氏子氏の熱誠により、同26年(1951年)本殿復興。同29年(1954年)拝殿復興。同30年(1955年)社務所復興、現在に至る。
大垣八幡神社の境内
特別な祭事等がなければ神社境内に駐車場してもよいようです。数台駐車できるスペースがありましたがほとんどの人は鳥居前に路上駐車していました。
正面の鳥居からは車は入れず西側の脇から入らないといけないので案内がないとわかりにくです。
八幡神社ですが、それほど広くない境内には他に天満宮、出雲社、稲荷神社などいろいろまつられています。
大垣市は「水の都」と呼ばれており、境内には「自噴水 大垣の湧水」が湧いています。多くの人が水を汲みに来ていました。
まとめ
『聲の形』の映画公開で注目されている大垣市の中心にある神社です。
聖地巡礼で大垣市へ訪れた際には、大垣八幡神社にも足を運んでみてください。
水もおいしいです。