治水神社 ~薩摩義士・宝暦治水ゆかりの神社
参拝
岐阜・愛知・三重、東海三県のちょうど県境にある神社
木曽三川公園という季節の花や家族連れが楽しめる公園があり、多くの人でにぎわっています。
この公園の隣にひっそりと鎮座する治水神社に行ってきました。
治水神社・ご由緒
江戸時代の中頃、徳川幕府は、木曽三川の水害で悩む濃尾平野西南部の住民を救うため、薩摩藩にお手伝い普請を命じました。薩摩藩士らは、経験したことのない水の流れに苦しみながら、この地方の住民のため、多大の犠牲を払い、万難を排して工事を見事完成させました。
平田靱負大人は、この工事の総責任者です。幕府の検分が終わった直後の宝暦5年5月25日、工事の完成を見届けた大人は、美濃大牧の役館で命終されたのです。
永く埋もれていたこの大工事を世に広めたのは、三重県多度に住む西田喜兵衛です。彼はこの工事の様子を世間に知らせ、犠牲者の慰霊と顕彰に邁進しました。明治33年、近代の木曽三川の治水工事の成功式に併せて「宝暦治水之碑」が、時の総理大臣山県有朋公を迎えて油島千本松原に建立されました。
その後、平田大人を治水の神と讃える地元の人々の報恩感謝の熱い思いにより、昭和13年現在の地に、平田靱負大人を御祭神とする治水神社が創建されました。治水神社は、治水に尽力された薩摩藩士の功績を讃え、平田靱負大人の遺徳を偲び、犠牲となった多くの藩士達を慰霊しています。
この「宝暦治水」をきっかけに、現在でも岐阜県と鹿児島県は姉妹県盟約締結するなど、友好関係がつづいています。
さらに岐阜県海津市と鹿児島県霧島市、岐阜県大垣市と鹿児島県鹿児島市、日置市が友好都市、姉妹都市として交流を行っています。
鹿児島に旅行したときに大垣市という文字を見て妙に親近感がわきました。
治水神社の境内
神社社殿裏に正式な駐車場かわかりませんが、10台ほど駐車できるスペースがありました。
しかし、東側の河川敷に広い公園の駐車場があるのでこちらにとめるほうが確実かもしれません。
木曽三川公園側から神社に向かっていくと、まず「宝暦治水ゆかりの治水神社」看板が目に入ります。
看板まわりにあるのぼり旗には岐阜県なのに薩摩藩(鹿児島県)の十字の家紋が入っています。
駐車場の場所的にどうしても正式な鳥居のほうからの参拝が難しいので、ここを通って正面にでます。
どうしても鳥居から参拝したい方は堤防道路の脇を南に歩いて行ってください。
今回は境内を通りぬけて、鳥居を出てというおかしな順番で参拝でしたが、正面はこちらですね。
手水舎。
境内には彼岸花(曼珠沙華)が咲いていました。
なぜか赤色は少なく、黄色と白色の彼岸花が多かったです
社務所は閉まっていました。
社殿正面、西側に「薩摩義士之像」があります。
拝殿の西側に授与所があり、ここで御朱印をいただきました。300円でした。
今回は書き置きの御朱印に日付をいれていただきました。
社殿裏手には「宝暦治水観音堂」がありました。
まとめ
全国的にはそれほど有名ではない「宝暦治水」ですが、木曽三川に隣接する岐阜県、愛知県、三重県では忘れてはならない出来事です。
自分たちとはまったく関係ない土地の治水工事に命をかけてくれた薩摩義士にはただただ感謝ですね。
近い神社なので、今度は御朱印帳に御朱印をいただきたいです。